白馬雪渓事故について
事故の位置付け
ここでは、山岳地帯における、登山あるいはトレッキング目的以外入山者の事故の法的責任についてみてみます。
今回検討する事故は、20)修学旅行で白馬大雪渓の末端を訪れた高校生が、雪渓末端の雪庇の崩落により3名が死亡(死亡した生徒のうち1名をAといいます。)、1名が負傷した事故(白馬雪渓事故)です。
昭和40年代に発生した事故であることから、今日とは時代背景も若干異なります。
そのこともあり、裁判所の判断についても、今日とは若干異なる点があるかもしれません。
しかし、教員に求められる注意義務の程度に関する裁判所の判断枠組みは、今日の教育活動の登山事故における教員の注意義務・安全配慮義務の程度・範囲を考える際の参考になると思われます。
そのこともあり、20)白馬雪渓事故もここで取り扱うこととします。
事故の概要
昭和40年代半ばの10月中旬、地方自治体(以下「甲」といいます。)の教育委員会が「・・修学旅行の計画実施について。」と題した通達を、甲が設置者である公立高校に出し、自然旅行の徹底を指導しました。
その通達を受け、甲が設置者である高校(以下「X高校」といいます。)が、白馬大雪渓の見学を日程に含む信州への修学旅行を実施することとなりました。
この修学旅行の白馬大雪渓見学に際し、白馬尻小屋の上方約500mの地点において、教員から修学旅行参加生徒へ注意事項が伝達されましたが、その伝達された注意事項に反し、Aらは、注意事項の伝達がおこなわれた場所から80~100m登った雪渓末端の雪庇が雪洞状になっている箇所の内部に入り込み、写真を撮ろうとしました。
そうしたところ、午前10時半頃、雪庇が崩壊、雪塊が生徒の頭上に落下し、生徒2名が即死、病院に搬送された1名の生徒も当日午後に死亡、その他1名の生徒が負傷しました。
尚、X高校の教員は、修学旅行前に地元ガイドとともに現地を下見しており、事故当日はガイドも同行していました。
この事故を理由として、Aの遺族が、引率教員2名(以下「乙」および「丙」といいます。)に職務上の過失があったとして、X高校の設置者である甲に対し、国家賠償法1条1項に基づく損害賠償を求め提訴しました。
しかし、この裁判の1審裁判所は、Aの遺族の請求を棄却しました。
裁判所の判断
引率教員の過失に関する判断
裁判所は、その判決の中で、引率教員であった乙および丙の注意義務について、次のように述べています。
公立学校の教員は、学校教育法等の法令によつて、生徒を保護し、監督する義務があることはいうまでもなく、この監督義務は、学校における教育活動及びこれと密接不離の関係にある生活関係の範囲に及ぶものである。本件修学旅行は、X高校における特別教育活動として行われたものであり・・・計画、実施するにあたつては、X高校の教諭であり、引率者であつた乙及び丙は、職務上当然に生徒の生命の安全について万全を期すべきであり、白馬大雪渓の下検分、見学にあたり、危険の状態、危険の箇所を充分に把握し、生徒にもこれを理解させ、これに近づけないようにすべき注意義務のあることは勿論で・・・右義務は、生徒を一時休憩のため解散し、自由に雪渓を見学させる場合でも免除されるものではなく、解散に際しては、生徒に単に危険の状態等について注意するのみでなく、生徒の行動について充分に監視し、事故の発生を防止しなければならないものである
神戸地判昭和49年5月23日
ここでは、教員が、学校教育法上あるいは在学関係から負う、一般的な安全配慮義務が特別教育活動としてとりおこなわれた修学旅行にも及ぶことを示した上で、単に生徒に対し注意事項を伝達するだけではなく、生徒らの行動を監視し、事故発生の防止する義務をおっていることに言及しています。
このように、教員である乙と丙の安全配慮義務について述べた上で、X高校が小学校あるいは中学校ではなく高等学校であるという点に着目して、
しかし、右義務の内容は、小学校又は幼稚園の児童又は園児のように心身の発達が未熟で判断能力の低い者に対するそれと、成人に近い判断能力を有するまでに心身の発達している高等学校の生徒に対するそれとでは自ら差異があると解すべきで・・・通常・・・高等学校の生徒の心身の発達の程度は成人に近いものがあり、自己の行為により如何なる結果が生じ、如何なる責任を負担するかの判断能力も成人のそれに近いものがあり、このような能力のある年令に達している生徒には、自主的に自己の行為を規制し、責任をもつて行動することを期待しうるものである
神戸地判昭和49年5月23日
と、高校生に対しては、小学生、幼稚園児などと異なり、自主的に自己の行為を規制し、責任をもって行動することが期待できるとしています。
その上で、裁判所は、
従つて、これら生徒を引率する教員は、右のような能力に達していることを前提とした適切な注意と監督、即ち、右のような能力を有している者が通常の行為をなす場合においても、なお生命身体に危険が発生することが客観的に予測される場合に、それに応じた事前の適切な注意と監督を為すべき義務があると解するのが相当
神戸地判昭和49年5月23日
とし、高校生を引率する教員は、成人に近い判断能力を有する高校生が、通常の行動をとったとしても、なお生命身体への危険が客観的に予測されるような場合、それに応じた事前の注意と監督をおこなう義務が生じるとしています。
このように、精神的発達の程度及び判断力の相違から、高校の教員に関し、幼稚園、小・中学の教員に比べ、注意義務の程度を低く認定している点は、下記の記事で扱っていますm)六甲山落石事故の判決と類似しています。
その上で、裁判所は、次のように判示しています。
大雪渓の下検分について・・・丙らは、五月の下検分の際に見た雪渓を、そのまま状況に変化のないものとして認識したのではなく、雪渓は、その年により、時期により、状況を異にし、危険であることを認識し、修学旅行の具体的計画を検討したものであつて、下検分について注意義務に欠けるところがあつたということはできない・・・本件事故は、丙ら引率教諭が、解散地点又はその付近にいて、生徒を監視していた際、上方岩のある付近から目を離した数分の間に起つたもので・・・一七年余に達した高校二年生は、成人に近い判断能力を有していたとしても、まだ未熟なものがあり、又、修学旅行が研修旅行であるとしても、旅行であれば平素とは違つて浮わついた気持が加わつていたことは否定できず、Aらは、始めて見る大雪渓に好奇心を持ち、決められた行動についての規制を越えてしまつたものであろうことは想像しうるところである(が、)・・・本件見学は、水泳訓練において水の中に生徒を入れたり、冬山登山において生徒を山岳に登らせるのとは異り、大雪渓を見学することが目的であるから、生徒に雪渓の危険性を理解させ、これに近づかないように監視することが引率者としての最も重要な注意義務の内容で・・・猿倉と解散地点においては、・・・山案内人及び丙らから、雪渓の成因と危険性について説明があり、近よるな、乗るな、さわるな、石を投げるな、等と個別的、具体的な注意がなされ、おおよその見学すべき場所も指示され、生徒は、これを理解していたと考えられ、かつ、雪洞の雪庇は、外観上から危険であることは充分認識し得られる状態にあつたと考えられ・・・引率者はそれぞれ、全生徒の行動を監視し、個別的にも、携帯マイク等で呼びかけていた・・・以上のような、引率者の注意と監視の行為を考えるならば、判断力の未熟なものがまだ残り、旅行という浮ついた気持のあることを考慮に入れても、一七年に達した高校二年生という成人に近い判断力を有している者に対する注意義務としては欠けるものがあつたということはできない。右以上に、各生徒についての、全行動についてまで、監視をなすことを要求することは、もはや難きを求めるものといわなければならない
神戸地判昭和49年5月23日
ここでは、生徒に冬山登山させるのとは異り、大雪渓を見学することが目的であるから、生徒に雪渓の危険性を理解させ、これに近づかないように監視することが引率者としての最も重要な注意義務の内容であるとし、乙と丙の注意義務違反を否定しています。
裁判所の判断に関する考察
裁判所の判断は少し分かりづらいのですが、
①高校2年生は大人に近い判断能力を有していることから、引率教員の注意義務の程度は高くはないとしながら
②しかし、修学旅行という旅行の機会では、生徒は浮わついてしまうものなので、通常の学校行事より教員の生徒の行動への注意義務は高くなるとしたうえで
③水泳訓練や冬山登山のように内在的な危険性が潜む状況におかれるものではなく、大雪渓を離れた場所から見学することが目的であったことから、注意義務の範囲も限定されていたとして、引率教員に要求される注意義務の程度を引き下げています。
ここで、留意したいのは、③の水泳訓練や冬山登山と異なり大雪渓を見学するだけが目的なので、注意義務の範囲も限定されるとしている点です。
判決のこの部分は、潜在的な危険性の程度により、引率教員の注意義務の程度が異なると考えていることに基づくものと思われます。
しかし、この考え方を敷衍しますと、仮に修学旅行の日程が大雪渓を登り詰める白馬岳登頂登山であれば、その白馬岳登頂登山の引率をおこなう教員は、事故当時に要求された注意義務より、高度の義務が課されることになったと考えられます。
そうすると、理屈の上では、同じ事故現場の大雪渓末端の危険性についても、登山を目的とし、そのわき道を通過するする場合と、近くから眺める場合とでは、引率教員の注意義務の範囲も異なり、その程度も異なってくることとなりそうです。
このことは、感覚的には首肯し得るものではありますが、よく考えますと、大雪渓末端の潜在的危険性は異ならないのに、何故注意義務の範囲・程度が異なることになるのか、不思議にも思われます。
秋の大雪渓では、雪渓がズタズタになり、かなりの程度の危険性を内包する状態となっています。
この事故は、そのような潜在的危険性を有する大雪渓末端に接近した場所で発生している以上、注意義務の範囲を限定し、実質的に注意義務の程度を引き下げる理由はないようにも思われます。
しかし、この事故では、引率教員は、Aらに対し危険個所へ近づかないよう注意しており、丙らの引率教員からしても、Aらが事故現場のような危険個所へ近づくとは考え難かったという事情があります。
事前に禁止を申し渡しており、また外観上明らかに危険であったことから、高校生ともなれば、雪渓の末端部分に近づくようなことはしないであろうという、引率教員の生徒の行動に対する信頼がベースにあたっとも言えます。
また、判断能力のある高校生が、禁止した事項を守らず、明らかに危険が内在しているとわかる場所に接近したことにより、高校生に死傷の結果が生じたとしても、高校生の自己責任となりうるとの考え方も根底にあるように思われます。
前者は、一種の信頼の原則の問題ともいいえますが、信頼の原則は主に刑事事件で用いられる概念で、民事事件への適用に関しては諸説があります。
正面切った信頼の原則の適用の問題はさておき、相手への信頼が正当化されるような事情は、相手がそのような危険な行動には出ないであろうという考えに結び付き、結果として予見可能性に影響するとも考えられます。
このように考えますと、本件の引率教員である乙および丙の過失責任が否定された理由の中には、注意義務の範囲が限定され、教員に求められていた注意義務の水準が低かったということとともに、生徒が雪渓に近づくことへの予見可能性も低かったことも含まれているように思われます。
大雪渓を通る白馬岳登山であれば、当然に事故現場となった大雪渓(あるいはその脇道)を通過することとなるのですが、本件では、危険個所に近づくことを予定していませんでした(むしろ禁止していました)。
10月の中旬という時期からすると、事故現場での雪庇の崩壊による雪塊の崩落は予見が可能であったのかもしれませんが、生徒の判断能力、事故前の禁止事項の申し渡し等から、生徒が事故現場に入り込むことまでを予見するのは困難であったとも考えられます。
また、高校の生徒の修学旅行において小学生の引率とは異なり、一定程度生徒の行動を信頼することも許容しうるとの考え方も根底にあったのかもしれません。
いずれにしましても、この事故で引率教員に過失が認定されなかったのは、高校生の精神的成長・判断能力の発達が大きく影響していると考えられます。